令和7年 井草八幡宮例大祭日程

◎九月三十日(火) 宵宮
・神事
 宵宮祭斎行  午後五時(本殿)

・奉納行事
 井 草 囃 子   午後四時より(神楽殿・招神殿)
 井草の大太鼓 午後六時より(神門前)
 献 華    早朝より午後十時まで(回廊)

・神賑行事
 文華殿公開  午後四時より午後九時まで
 参道の出店  正午頃より午後十時頃まで
                  [閉門 午後十時]

◎十月一日(水) 当日
・神事
 当日祭斎行  午前十時(本殿)

・奉納行事
 神 楽    午前十一時より午後九時まで(神楽殿)途中休憩あり
 井 草 囃 子   早朝より(招神殿)途中休憩あり
 北辰一刀流  午後一時より午後三時まで(神楽殿)
 井草の大太鼓 午後六時より(神門前)
 献 華    早朝より午後九時まで(回廊)

・神賑行事
 野  点  席  午前十一時三十分より午後四時まで(神楽殿前)
 文華殿公開  午後一時より午後九時まで
 参道の出店  正午頃より午後九時三十分頃まで
                  [閉門 午後九時三十分]

◎十月五日(日)渡御(雨天 神事中止)
・神事
 発 與 式  午後二時(北祭場)
 神 輿 渡 御   北祭場より桃井四丁目交差点までの青梅街道を
         御先祓いの御太鼓とお囃子に先導され、神輿は担がれ
         て渡御いたします。
 還 幸 式  午後五時(北祭場)

・奉納行事
 女子大長唄  午後(神楽殿)
 拳成塾空手  午後(神門前)
                  [閉門 午後五時四十分頃]

◎例大祭期間中の昇殿祈願受付について
・九月三十日  終日受付不可
・十月  一日  午後二時三十分より午後四時三十分まで受付
        (自動車のお祓いは受付出来ません)

九月の生命の言葉

やまとうたは 人の心を 種として よろづの言の葉とぞ なれりける  紀 貫之


「やまと歌」(和歌)は
人の心を種として
それがさまざまな言葉と
なったものである。


紀 貫之(きの つらゆき)

平安前期の歌人。三十六歌仙の1人。
加賀介、土佐守などを歴任、木工権守(もくのごんのかみ)に至る。
醍醐天皇の勅命で「古今和歌集」撰進の中心となり、仮名序を執筆。歌風は理知的で技巧にすぐれ、心と詞の調和、花実兼備(かじつけんび)を説いて古今調をつくりだした。
漢詩文の素養が深く、『土佐日記』は仮名文日記文学の先駆とされる。

八月の生命の言葉

ちはやふる 神ぞ知るらむ 民のため 世をやすかれと 祈る心は  明治天皇


御心聡い神は
きっと知ってくださる
ことであろう
国民のため安らかな
世の中であるようにと
祈っているこの心は

『明治神宮365日の大御心』(明治神宮)

七月の生命の言葉

樹を種うる者は必ずその根を培い
徳を種うる者は必ずその心を養う  王 陽明


樹の成長を望む者は
根がしっかりと張るよう
初めは余分な枝を刈り取り
根に栄養がいくように育てる
同じように(学問により)
徳を養いたいと望む者は
初めにしっかりと志を立て
余計な事に気がとられないように
しなければならない


王 陽明(おう ようめい)

中国、明時代中期の儒学者・政治家。
名は守仁(しゅじん)、陽明は号。武将として数々の武功をたて、学者としては朱子学に批判的な立場をとった。
その思想は「心即理(しんそくり)」「知行合一(ちこうごういつ)」などの原理をたて、実践を重んじる陽明学の創始者となった。

六月の生命の言葉

往き還り 足踏むごとに 産土の 神の恵みを 思へ世の人  本田親徳

家路の行き帰り その都度、大地を踏みしめて生活するものとして 大地の神様の恵みを忘れてはならない。


本田親徳(ほんだちかあつ)

明治時代の神道家。
文政五年(一八二二)一月、薩摩国川辺群加世田郷武田村(現鹿児島県南さつま市)の本田主蔵の長男として生まれた。幼少期は漢字と剣術を学ぶ。天保十年(一八三九)十八歳のとき、会沢正志斎(あいざわせいしさい)に入門。会沢門下として和漢を学び同時に平田篤胤の家にも出入りする。天保十四年、狐憑きの少女に出会い憑霊現象を実見。それ以来、霊学研究を始め、神霊を感合する道を求めた。

五月の生命の言葉

天 我が材を生ず 必ず用有り 李白

天が自分と言う人間をこの世に生んだのには必ず用、すなわち使命がある。


李白

杜甫(とほ)と並んで中国を代表する詩人。
七〇一年中国本土からはるか西の土地、砕葉(すいあぷ、現キルギス共和国のトクマク付近)生まれ。中国全域を旅し、「飲むからには一気に三〇〇杯は飲み干さなくては」等「酒仙」とまで呼ばれ酒を愛していたことで知られ、飲酒を礼賛した詩を数多く詠んでいる。

四月の生命の言葉

志を立つ 橋本左内


橋本 左内(はしもと さない)

天保五年(一八三四)三月十一日、現在の福井藩奥外科医(藩医)の長男として生まれる。名は綱紀(つなのり)、通称を左内(さない)とし、号を景岳(けいがく)とされた。
安政六年(一八五九)十月七日、斬首の刑に処せられた。享年二十六。
十五歳の時、偉人英傑の言動や精神を学び『啓発録(けいはつろく)』を著した。その内容は「去稚心(ちしんをさる)」「振気(きをふるう)」「立志(こころざしをたつ)」「勉学(がくにつとむ)」「択交友(こうゆうをえらぶ)」の五つの項目を立てて、少年にして学問を志す者の為に、入門の手引きとして作られた書である。

三月の生命の言葉

備えあれば患えなし 『書経』


『書経』

儒教の経書である『五経』の一つ。
中国神話に登場する尭・舜(ぎょう・しゅん)から秦の穆公(ぼくこう)に至る記録をまとめたもの。古代政治における君主と臣下のやりとりが詳細に記されており、史書としても価値が高い。帝王学の名著であり、我が国でも「昭和」や「平成」など年号の出典として採用されている。

二月の生命の言葉

岩かげに したたり落つる 山の水 大河となりて 野を流れゆく  今上陛下


今上陛下には、平成二十五年五月に山梨県甲州市の笠取山に登られ

東京都水道水源林を御視察になりました。

このお歌は、その折に、多摩川源流となる岩から滴り落ちる一滴一滴の水と

その先の小さな水の流れをご覧になり、その流れゆく先に思いを馳せられて

お詠みになったものです。   (宮内庁ホームページより)