七月の生命の言葉

樹を種うる者は必ずその根を培い
徳を種うる者は必ずその心を養う  王 陽明


樹の成長を望む者は
根がしっかりと張るよう
初めは余分な枝を刈り取り
根に栄養がいくように育てる
同じように(学問により)
徳を養いたいと望む者は
初めにしっかりと志を立て
余計な事に気がとられないように
しなければならない


王 陽明(おう ようめい)

中国、明時代中期の儒学者・政治家。
名は守仁(しゅじん)、陽明は号。武将として数々の武功をたて、学者としては朱子学に批判的な立場をとった。
その思想は「心即理(しんそくり)」「知行合一(ちこうごういつ)」などの原理をたて、実践を重んじる陽明学の創始者となった。

六月の生命の言葉

往き還り 足踏むごとに 産土の 神の恵みを 思へ世の人  本田親徳

家路の行き帰り その都度、大地を踏みしめて生活するものとして 大地の神様の恵みを忘れてはならない。


本田親徳(ほんだちかあつ)

明治時代の神道家。
文政五年(一八二二)一月、薩摩国川辺群加世田郷武田村(現鹿児島県南さつま市)の本田主蔵の長男として生まれた。幼少期は漢字と剣術を学ぶ。天保十年(一八三九)十八歳のとき、会沢正志斎(あいざわせいしさい)に入門。会沢門下として和漢を学び同時に平田篤胤の家にも出入りする。天保十四年、狐憑きの少女に出会い憑霊現象を実見。それ以来、霊学研究を始め、神霊を感合する道を求めた。

五月の生命の言葉

天 我が材を生ず 必ず用有り 李白

天が自分と言う人間をこの世に生んだのには必ず用、すなわち使命がある。


李白

杜甫(とほ)と並んで中国を代表する詩人。
七〇一年中国本土からはるか西の土地、砕葉(すいあぷ、現キルギス共和国のトクマク付近)生まれ。中国全域を旅し、「飲むからには一気に三〇〇杯は飲み干さなくては」等「酒仙」とまで呼ばれ酒を愛していたことで知られ、飲酒を礼賛した詩を数多く詠んでいる。

四月の生命の言葉

志を立つ 橋本左内


橋本 左内(はしもと さない)

天保五年(一八三四)三月十一日、現在の福井藩奥外科医(藩医)の長男として生まれる。名は綱紀(つなのり)、通称を左内(さない)とし、号を景岳(けいがく)とされた。
安政六年(一八五九)十月七日、斬首の刑に処せられた。享年二十六。
十五歳の時、偉人英傑の言動や精神を学び『啓発録(けいはつろく)』を著した。その内容は「去稚心(ちしんをさる)」「振気(きをふるう)」「立志(こころざしをたつ)」「勉学(がくにつとむ)」「択交友(こうゆうをえらぶ)」の五つの項目を立てて、少年にして学問を志す者の為に、入門の手引きとして作られた書である。

三月の生命の言葉

備えあれば患えなし 『書経』


『書経』

儒教の経書である『五経』の一つ。
中国神話に登場する尭・舜(ぎょう・しゅん)から秦の穆公(ぼくこう)に至る記録をまとめたもの。古代政治における君主と臣下のやりとりが詳細に記されており、史書としても価値が高い。帝王学の名著であり、我が国でも「昭和」や「平成」など年号の出典として採用されている。

二月の生命の言葉

岩かげに したたり落つる 山の水 大河となりて 野を流れゆく  今上陛下


今上陛下には、平成二十五年五月に山梨県甲州市の笠取山に登られ

東京都水道水源林を御視察になりました。

このお歌は、その折に、多摩川源流となる岩から滴り落ちる一滴一滴の水と

その先の小さな水の流れをご覧になり、その流れゆく先に思いを馳せられて

お詠みになったものです。   (宮内庁ホームページより)

一月の生命の言葉

ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ  昭和天皇


ふりつもる雪にも耐えて色を変えない松の

なんと雄々しいことか人もこのようにありたいものだ

十二月の生命の言葉

自ら苦労して これを人に頒つ(わかつ)  廣池千九郎


廣池千九郎(ひろいけ ちくろう)

大分県中津市生まれ。教育者、歴史家、法律学者。世界の中で日本の皇室がなぜ連綿と続いているのか、この問いを探求した結果「(皇室の)質の高い道徳の実行にある」と結論を見出し道徳こそが人類の安心・平和・幸福の基礎であると考え、大正十五年に『道徳科学の論文』を完成させ、モラロジーを広く世に提唱した。

十一月の生命の言葉

天地も うごかすばかり 言の葉の まことの道を きはめてしがな  明治天皇


この広大な天地をも
感動させるほどの
歌の言葉にこめる
人の心のまことの道を
深くきわめたいものである。
『明治の聖代』(明治神宮)