信実と誠実をなくしては 礼儀は茶番であり 芝居である 新渡戸稲造
新渡戸稲造
明治・大正期の農学者・教育者。文久二年(一八六二)、盛岡生まれ。札幌農学校卒業後、東京大学を経てアメリカ・ドイツと留学し、札幌農学校教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長を歴任。また「太平洋の橋たらん」の信念のもと、国際連盟事務次長として国際理解と世界平和のために活躍した。
信実と誠実をなくしては 礼儀は茶番であり 芝居である 新渡戸稲造
新渡戸稲造
明治・大正期の農学者・教育者。文久二年(一八六二)、盛岡生まれ。札幌農学校卒業後、東京大学を経てアメリカ・ドイツと留学し、札幌農学校教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長を歴任。また「太平洋の橋たらん」の信念のもと、国際連盟事務次長として国際理解と世界平和のために活躍した。
みな人の こころもみがけ 千早ぶる 神のかゞみの くもる時なく 後醍醐天皇
後醍醐天皇
鎌倉時代後期の第九十六代天皇。
数え年三十一歳で即位なされ『増鏡(ますかがみ)』によると新政の開始とともに和歌や漢詩文、管絃の会をさかんに催し親から(みずから)笛や笙を奏し、琵琶の宝器「玄象(げんじょう)」を演奏したとあります。『太平記』には商売や往来の妨げとなる関所の新設を禁止し、また飢饉(ききん)に際しては、米価の高騰を抑え庶民の窮状を救った果敢な政治が称えられています。
さらに、「下の情(こころ)、上に通ぜざる事もあらん」と記録所へ親ら出向き、直に訴えを聞いて理非を決断したとあります。しかし一方で、門閥(もんばつ)貴族の既得権益を守ろうとした公家からは、先例を無視した政治手法や素姓性の知れない者等を政権の要職に付けるなど、家柄や門閥を顧慮しない人材登用を痛烈に批判されています。時代の要請もあり討幕を企て実現した「新しい勅裁(ちょくさい)」の政治は、二年余りで破綻・崩壊し、南北両朝が分立・抗争する時代の中、五十二歳で吉野の行宮にて崩御なされます。
後醍醐天皇の御代は、日本の政治、社会、思想、文化の一大転換期となる時代であり、表の歌はそのような背景で詠まれた御製となります。
浅き川も深く渡れ 皆虚(かいきょ)
皆虚(かいきょ)
江戸時代前期の僧、俳人。元和(げんな)二年(一六一六年)生まれ。土佐の真宗大谷派円満寺の住職。連歌を里村昌琢(しょうたく)に、俳諧を野々口立圃(りゅうほ)に学んだ。別号に角茄軒。法名は空願。著作に『四名集』。標記の言葉は『世話焼草』より。
それ神道は 正直を以て体となし 敬愛を以て心となし 無事を以て行となす 中江 藤樹(とうじゅ)
神道の教えの「正直」を実現するには
愛(包容・調和)と
敬(慎しみ)の精神のもと
過ちの無いように
日々実行することである
中江 藤樹(なかえ とうじゅ)
江戸時代前期の儒学者。近江国の人で、その家塾を藤樹書院と称し実践的な神道を重んじた。その高潔な人柄から近江聖人と呼ばれた。藤樹がその独特な神道観を説き始めるのは三十一歳以降の事で最晩年にあたる。儒教の礼法は日本の神道葬儀と一致するという神儒合一論へと展開していき、著書『翁問答』の中で、これを「太虚(たいきょ)神道」と呼んでいる、藤樹の神道観は、弟子の渕岡山(ふちこうざん)により、特に会津地方に根付いていった。
世界にまるで不用の物なし 南方熊楠
南方熊楠(みなかたくまぐす)
明治から昭和期の博物学者、生物学者、民俗学者。
米国、英国等へ留学し、様々な言語の文献を用いて国内外で多くの論文を発表した。
特に粘菌(ねんきん)などの微生物の研究は世界的に知られる。
また、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な役割を果たした。
生涯、在野の学者に徹し、地域の森林生態の保護にも力を注いだ。
遠きに行くには 必ず近きよりす 『中庸』
高い目標を実現するためには
できることから一つずつ順を追って
進まなければならない
『中庸』(ちゅうよう)
儒教の基本的な経書『四書』の一つ。
もともとは中国・戦国時代の思想書『礼記』の一遍であり、
天と人が一体であるという天人合一(てんじんごういつ)を説き、
「中庸とは徳の至れるものなり」とその徳と誠の道とを強調している。
心のありよう、儒学、陽明学が説く心とは何かが書かれている。
中庸とは極端に偏らず、常に変わらず調和がとれていることをいう。
良馬は毛にあらず 士たるはその志にあり 尾藤 二洲
人が尊敬を受けるのは
その外見ではなく
人格・人柄という
心の持ち方(志)によって
決まるのである
『静寄軒集(せいきけんしゅう)』
尾藤 二洲(びとう じしゅう/にしゅう)
江戸後期の儒学者。別号は約山・静奇軒。伊予国川之江の出身。幼少時に足を悪くするが、学問で身を立てることをこころざし、大坂に出て学問に励むとともに私塾を開き朱子学の普及に努め、幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)の教授を約二十年間務めた。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。
学舎に ひびかふ子らの 弾む声 さやけくあれと ひたすら望む 上皇陛下
-宮内庁 令和二年歌会始 お題「望」
波立たぬ 世を願ひつつ 新しき 年の初めを 迎へ祝はむ 上皇陛下
-宮内庁 平成六年歌会始 お題「波」