浅き川も深く渡れ 皆虚(かいきょ)
皆虚(かいきょ)
江戸時代前期の僧、俳人。元和(げんな)二年(一六一六年)生まれ。土佐の真宗大谷派円満寺の住職。連歌を里村昌琢(しょうたく)に、俳諧を野々口立圃(りゅうほ)に学んだ。別号に角茄軒。法名は空願。著作に『四名集』。標記の言葉は『世話焼草』より。
浅き川も深く渡れ 皆虚(かいきょ)
皆虚(かいきょ)
江戸時代前期の僧、俳人。元和(げんな)二年(一六一六年)生まれ。土佐の真宗大谷派円満寺の住職。連歌を里村昌琢(しょうたく)に、俳諧を野々口立圃(りゅうほ)に学んだ。別号に角茄軒。法名は空願。著作に『四名集』。標記の言葉は『世話焼草』より。
それ神道は 正直を以て体となし 敬愛を以て心となし 無事を以て行となす 中江 藤樹(とうじゅ)
神道の教えの「正直」を実現するには
愛(包容・調和)と
敬(慎しみ)の精神のもと
過ちの無いように
日々実行することである
中江 藤樹(なかえ とうじゅ)
江戸時代前期の儒学者。近江国の人で、その家塾を藤樹書院と称し実践的な神道を重んじた。その高潔な人柄から近江聖人と呼ばれた。藤樹がその独特な神道観を説き始めるのは三十一歳以降の事で最晩年にあたる。儒教の礼法は日本の神道葬儀と一致するという神儒合一論へと展開していき、著書『翁問答』の中で、これを「太虚(たいきょ)神道」と呼んでいる、藤樹の神道観は、弟子の渕岡山(ふちこうざん)により、特に会津地方に根付いていった。
世界にまるで不用の物なし 南方熊楠
南方熊楠(みなかたくまぐす)
明治から昭和期の博物学者、生物学者、民俗学者。
米国、英国等へ留学し、様々な言語の文献を用いて国内外で多くの論文を発表した。
特に粘菌(ねんきん)などの微生物の研究は世界的に知られる。
また、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な役割を果たした。
生涯、在野の学者に徹し、地域の森林生態の保護にも力を注いだ。
遠きに行くには 必ず近きよりす 『中庸』
高い目標を実現するためには
できることから一つずつ順を追って
進まなければならない
『中庸』(ちゅうよう)
儒教の基本的な経書『四書』の一つ。
もともとは中国・戦国時代の思想書『礼記』の一遍であり、
天と人が一体であるという天人合一(てんじんごういつ)を説き、
「中庸とは徳の至れるものなり」とその徳と誠の道とを強調している。
心のありよう、儒学、陽明学が説く心とは何かが書かれている。
中庸とは極端に偏らず、常に変わらず調和がとれていることをいう。
良馬は毛にあらず 士たるはその志にあり 尾藤 二洲
人が尊敬を受けるのは
その外見ではなく
人格・人柄という
心の持ち方(志)によって
決まるのである
『静寄軒集(せいきけんしゅう)』
尾藤 二洲(びとう じしゅう/にしゅう)
江戸後期の儒学者。別号は約山・静奇軒。伊予国川之江の出身。幼少時に足を悪くするが、学問で身を立てることをこころざし、大坂に出て学問に励むとともに私塾を開き朱子学の普及に努め、幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)の教授を約二十年間務めた。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。
学舎に ひびかふ子らの 弾む声 さやけくあれと ひたすら望む 上皇陛下
-宮内庁 令和二年歌会始 お題「望」
波立たぬ 世を願ひつつ 新しき 年の初めを 迎へ祝はむ 上皇陛下
-宮内庁 平成六年歌会始 お題「波」
人の行ふべきかぎりをば 行ふが 人の道 本居宣長
自分の出来ることを一生懸命にやる
報われる報われないは人の力の及ばないこと
このことを心得て大いなる事にあたるべし 『玉くしげ』
本居宣長
江戸時代の国学者・文献学者・医師。伊勢国(三重県)松坂の人。
二十二歳で医学の修行のため京都へ遊学し儒学・古典等を修め国学の道に入る事を志す。
松坂に帰り診療所を開業、そのかたわら源氏物語、古事記などの古典文学の注釈や漢字音文法などの
国語学的研究にすぐれた業績を残した。
『玉くしげ』は古典に基づく政治原理をまとめ紀州藩主・徳川治貞(とくがわ はるさだ)に献上したもの。
御社の 静けき中に 聞え来る 歌声ゆかし 新嘗の祭 今上陛下
—―宮内庁 平成二十六年歌会始 お題「静」
皇太子殿下には、天皇陛下にお供をされ、毎年十一月二十三日から二十四日にかけて皇居神嘉殿で行われる新嘗祭にお出ましになっています。このお歌は、その折、静まり返った神嘉殿のお社の中で、外から聞こえる楽部の奏でる神楽の音色に深い趣を感じられてお詠みになられたものです。 (平成二十六年歌会始 宮内庁解説より引用)