十二月の命の言葉

「我が物と思えば軽し笠の雪」宝井其角
いやいや荷物を持てば、本当は軽いはずのものも重く感じてしまう。人生は心の置きところひとつで、楽しくもなり悲しくもなる。ものの見方を変え、心を積極的肯定的に向けて行けば、難有るもまた有り難しである。            
宝井其角(たからいきかく)一六六一〜一七〇七(寛文元年〜宝永四年)江戸時代前期の俳諧師。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれる。松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。芭蕉十哲の第一の門弟と言われている。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。

東京都神社庁「生命の言葉」より

十一月の命の言葉

「人を相手とせず天を相手とせよ」西郷隆盛
『大西郷遺訓』にある言葉。これに続いて「天を相手として己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」とある。人がどう思うかより、天意にそった生き方をしているかどうかが大事なのである。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
一八二七〜一八七七(文政十年〜明治十年)武士・薩摩藩士・軍人・政治家。薩摩国鹿児島城下の下加治屋で御勘定方小頭の長男として生まれる。藩主島津斉彬に抜擢され、当代一の開明派大名の強い影響を受けた。禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し戊辰戦争を巧みに主導して、江戸城無血開城を実現した。薩摩藩の大久保利通と長州藩の木戸孝允と並び「維新の三傑」と称される。
東京都神社庁「生命の言葉」より

十月の命の言葉

「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」伊達政宗
「この世に客に来たと思えば何の苦もなし朝夕の食事はうまからずとも褒めて食うべし。元来客の身なれば好き嫌いは申されまじ」と続く。人間の欲というものは実に際限がない。そこからいらざる不平不満が頭をもたげ、ついには身の破綻にもつながる。この世に今あるのも客の身分と思えば、全て有り難く感謝できる。

伊達政宗(だてまさむね)
一五六七〜一六三六(永禄十年〜寛永十三年)戦国時代から江戸時代初期の武将・大名。仙台藩初代藩主。米沢城主伊達輝宗の長男として生まれる。仙台藩六十二万石の基礎を築く。幼少の頃に右眼を失明し、世に「独眼竜」と呼ばれた。明治七年、伊達家旧臣達が遺徳を偲び青葉神社を創祀して武振彦命(たけふるひこのみこと)の神号が贈られた。

九月の命の言葉

「一燈を提げて暗夜を行く 暗夜を憂ふるなかれ 只一燈を頼め」佐藤一斎
 一条の光さえ見えてこない真っ暗闇のなかにあっては、ただただ己の持つ燈だけが頼りだ。たとえ先が見えてこなくとも、いたずらに憂うことなく自らを信じて進むべきである。

佐藤一斎(さとういっさい)
 一七七二〜一八五九(安永元年〜安政六年)江戸時代後期の儒学者。美濃岩村藩の家老佐藤信由の次男として、江戸浜町の下屋敷で生まれる。三十四歳で朱子学の宗家林家の塾長となり、大学頭の林述斎とともに多くの門下生の指導に当たった。一八四一年(天保十二年)述斎が没したため幕府の学問所昌平黌の儒官(総長)となる。

八月の命の言葉

「人に勝つより自分に勝て」(嘉納治五郎)
成功しようとしたり、他人より優れた人物になろうとする者は、まず自分自身の欲望を克服しなければならない。

嘉納治五郎(かのうじごろう)
一八六〇〜一九三八(万延元年〜昭和十三年)明治から昭和にかけての柔道家・教育家。摂津国御影村に嘉納治朗作、定子の三男として生まれる。東京帝国大学卒業。講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力する。「柔道の父」と呼ばれる。

七月の命の言葉

「禍福は天にあるにあらず、人の招く所にある」(本多正信)
災難や幸運というものはすべて人が招くものである。現に不運にある人にはやや厳しいが、いま時を得ている人に言えばほめ言葉になろう。

本多正信(ほんだまさのぶ)
1538〜1616(天文7年〜元和2年)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。本多俊正の子として三河で生まれる。徳川家康の重臣で、江戸幕府の創業期に後の大老・老中に相当する役割を果たした。乱世には参謀として大いに活躍し、治世には幕政を実際に主導した。正信が家臣団に残した言葉。

六月の生命の言葉

「忙中閑あり苦中楽あり死中活あり 壺中天あり意中人あり腹中書あり」安岡正篤
 忙しい時にも心は忙殺されず、苦しい中に本当の楽しみを見出し、身を棄てて こそ浮かぶ瀬もあれ、いかなる境遇にも独自の内面世界を確立し、心には常に 尊敬する人物をもち、腹の中におさめる学問がある。

安岡正篤(やすおかまさひろ)
 1898〜1983(明治31年〜昭和58年)東洋政治哲学・人間学の権威 大阪市に生まれる。東京帝国大学法学部政治学科卒業。政財界、陸海軍関係者 に広く知られ、東洋思想の研究と後進の育成に従事し、財界リーダーの啓発・ 教化につとめた。

五月の生命の言葉

「心こそ心迷わす心なれ、心に心、心ゆるすな」 沢庵宗彭
喜怒哀楽の情に振り回されて、自分自身を見失ってはならない。むしろ己が心の主人となり、自分の心を制御できるように努めねばならない。それが幸福の鍵である。

沢庵宗彭(たくあんそうほう)
1573〜1645(天正元年〜正保二年)江戸時代の臨済宗の僧。書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しむ。但馬国出石で生まれる。十歳のときに出石の唱念寺で出家、1594年(文禄三年)、京都大徳寺に入り春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。1609年(慶長十四年)三十七歳で大徳寺の第154世住持に出世をしたが、名利を求めず、三日で大徳寺を去り、郷里出石の宗鏡寺に庵を結んだ。
                     東京都神社庁「生命の言葉」より

四月の生命の言葉

「為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」上杉鷹山
消極的になって自らの可能性を自分勝手に見限り、いたずらに心の壁を作っていないだろうか。自分の中にある無限の可能性を信じ、失敗を恐れず勇気を奮って進むことである。

上杉鷹山(うえすぎようざん)
一七五一〜一八二二(宝暦元年〜文政五年)江戸時代中期の大名。日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸藩邸で生まれる。十歳で出羽国米沢藩第八代藩主・上杉重定の養子となり、一七六八(明和四年)米沢藩主となる。領地返上寸前の米沢藩再生を農政・産業・財政・教育等の施策により藩財政を立て直した。江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲だが藩主引退後「鷹山」と号した。

三月の生命の言葉

「晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変わらざりけり」山岡鉄舟
山岡鉄舟が、剣の悟りを得たときに詠んだものという。人はとかく自分の幸不幸を周囲の環境のせいにしがちなのだが、本来あるべき自分をただそのままに生きて行けばよいのだ。平常心是道である。

「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)」
1836〜1888(天保七年〜明治二十一年)武士・幕臣・政治家。剣、禅、書の達人。江戸本所に御蔵奉行、小野朝右衛門高福の四男として生まれる。一刀正伝無刀流の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称された。
東京都神社庁「生命の言葉」より