「多忙とは怠け者の遁辞である」徳富蘇峰
世には「忙しい忙しい」と口癖のように言う人がいるが、それはなまけ者の言いのがれでしかない。計画を立て今日すべきことを一つ一つしていくことが肝心であるということ。
徳富蘇峰(とくとみそほう)
文久三年(一八六三)〜昭和三二年(一九五七)明治〜昭和の評論家。肥後生れ。徳富一敬の子。本名は猪一郎。大正期に入り『近世日本国民史』を書き始め、全百巻の大事業となる。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「多忙とは怠け者の遁辞である」徳富蘇峰
世には「忙しい忙しい」と口癖のように言う人がいるが、それはなまけ者の言いのがれでしかない。計画を立て今日すべきことを一つ一つしていくことが肝心であるということ。
徳富蘇峰(とくとみそほう)
文久三年(一八六三)〜昭和三二年(一九五七)明治〜昭和の評論家。肥後生れ。徳富一敬の子。本名は猪一郎。大正期に入り『近世日本国民史』を書き始め、全百巻の大事業となる。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「世々のおやの御かげ忘るな代々のおやは己が氏神己が家の神」本居宣長
玉鉾百首の一首。先祖の恩を忘れてはいけない。ご先祖さまは自分たちの氏神、家の神である。常に先祖を敬い感謝をしてこそご先祖様は守ってくださる。
本居宣長(もとおりのりなが)
享保十五年(一七三〇)〜享和元年(一八〇一)江戸後期の国学者。伊勢松坂の木綿業小津定利の次男。宝暦十三年(一七六三)加茂真淵に入門。さらに上古学に傾注して『古事記伝』を完成。古道論『直毘霊』学問論『初山踏』随筆『玉勝間』などがある。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「先祖の魂は子孫に伝わる」林 羅山
先祖の思いは必ず子孫に伝わるということ。私たちも正しい行いを心がけ、次の世代につなげていきたいものである。出典『神道伝授』
林 羅山(はやし らざん)
天正十一年(一五八三)〜明暦三年(一六五七)江戸前期の儒学者。京都四条新町生れ。寛永七年(一六三〇)上野忍岡の賜地に塾舎と文庫を建て、同九年(一六三二)同所に先聖殿を建設。昌平黌の基を開く。『神道伝授』『本朝神社考』『怪談全集』など多数の著書がある。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「神は正直を以て先となし正直は清浄を以て本となす」渡会家行
神への心と人の道はまずもって正直であること。その正直は清浄を根本としている。
渡会家行(わたらいいえゆき)
康元元年(一二五六)〜正平一七(一三五一)鎌倉末、南北朝時代の神道家。家名は村松。有行の子。建武三、延元元年(一三三六)内宮禰宜荒木田興時らと共に田丸城にたてこもり、足利尊氏の軍と戦う。そして、家行は正直と清浄を強調し渡会神道を大成し、北畠親房などに影響を与えた。著に『類聚神祇本源』『神道簡要』など。 東京都神社庁「生命の言葉」より
「人間のやったことは人間がまだやれることの百分の一にすぎない」豊田佐吉
人間はさまざまな事を考え発明し、行動してきているがそれは、まだほんの一部でありまだまだたくさんの可能性が秘められている。
豊田佐吉(とよたさきち)
慶応三年(一八六七)〜昭和五年(一九三〇)明治・大正期の織機発明家。遠江(現在の静岡県)生れ。一日中機織に苦労する母親を楽にしたいと明治二三年(一八九〇)木制人力織機、二七年糸繰機、三十年木制動力織機を発明。大正七年豊田紡績を設立。その後のトヨタグループの礎を築いた。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「一日は一日より新たならんことを欲す」伊藤仁斎
一日一日は常に新たな気持ちを抱いて過ごしていかなければいけない。昨日の自分と今日の自分とは同じであるというのでは進歩がない。『古学先生文集』
伊藤仁斎(いとうじんさい)
寛永四年(一六二七)〜宝永二年(一七〇五)江戸前期の儒学者。古義学派の創始者。京都堀川生れ。鶴屋七衛門の子。従来学んできた朱子学に疑問を抱き、論語、孟子の真義をつかんで仁義の実践を求める古義学を首唱。著に『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』など。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「何事のおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」西行
西行法師が、伊勢神宮に詣でて、その時の感動を詠んだもの。仏教に帰依した身の西行は、伊勢神宮の名前を直接出すことを遠慮し、何がいらっしゃるかはわからないが、そのありがたさに涙がこぼれると歌ったと伝えられる。『異本山家集』
西行(さいぎょう)
元永元年(一一一八)〜建久元年(一一九〇)平安後期の歌人。左衛門尉佐藤康清の子、母は監物源清経の娘。俗名は義清。晩年に円位と号し、大宝房とも称す。保延六年(一一四一)にわかに出家し、西行と名のる。出家後数年間は嵯峨東山鞍馬などの草庵や寺を転々として修行。生活体験のにじみ出た述懐歌にすぐれ、新古今和歌集では九四首が入集。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「なるようになる、心配するな」一休和尚
いたずらに悩んでもしょうがない。という教え(死を求めるよりも)今を生きろ。死後、難題が持ち上がったら読めと残した遺言と伝えられる。
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
応永元年(一三九四)〜文明十三年(一四八一)室町時代の臨済宗の僧で京都生まれ。幼くして山城安国寺の象外集鑑の門に入る。文明六年(一四七四)大徳寺住職の懇願を受け大徳寺の復興に尽力。著に『狂雲集』『骸骨』など。その豊かな人間味から一休にかこつけ頓智咄が作られた。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「みな人の祈る心もことわりに背かぬ道を神や受くらむ」藤原為守
どんなことでも道理に背いた祈りを神はお受けにならない。願い事をする心にやましいところがないか、冷静に考えてみるべきである。『玉葉集』より
藤原為守(ふじわらのためもり)
文永二年(一二六五)〜嘉暦三年(一三二八)鎌倉後期の歌人。権大納言藤原為家の子、母は阿仏尼。冷泉為相の弟。俗名は冷泉為守。暁月は法名。歌道の名門に生れ、作歌は『玉葉集』『風雅集』などに収められるが、酒を好み狂歌を詠み、『狂歌酒百首』の作者と伝えられる。
東京都神社庁「生命の言葉」より
「交際の奥の手は至誠である」渋澤栄一
人とのつき合いで最も大切であり最後に物を言うのは、相手に誠実を尽くすことにある。相手に信頼されるためには真心と誠実が第一である。
渋澤栄一(しぶさわえいいち)
天保十一年〜昭和六年(一八四〇〜一九三一)。実業家。埼玉県の人。号は青淵。一橋家に仕えた後、幕臣となる。慶応三年(一八六七)徳川昭武に随行して渡欧。西欧の近代的産業設備や経済制度を学ぶ。維新後、大蔵省に出仕。のちに第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京ガスなど多数の会社を設立。教育・社会事業にも尽力。
東京都神社庁「生命の言葉」より