四月の生命の言葉

「一日は一日より新たならんことを欲す」伊藤仁斎
一日一日は常に新たな気持ちを抱いて過ごしていかなければいけない。昨日の自分と今日の自分とは同じであるというのでは進歩がない。『古学先生文集』

伊藤仁斎(いとうじんさい)
寛永四年(一六二七)〜宝永二年(一七〇五)江戸前期の儒学者。古義学派の創始者。京都堀川生れ。鶴屋七衛門の子。従来学んできた朱子学に疑問を抱き、論語、孟子の真義をつかんで仁義の実践を求める古義学を首唱。著に『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』など。
                           東京都神社庁「生命の言葉」より

三月の生命の言葉

「何事のおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」西行
 西行法師が、伊勢神宮に詣でて、その時の感動を詠んだもの。仏教に帰依した身の西行は、伊勢神宮の名前を直接出すことを遠慮し、何がいらっしゃるかはわからないが、そのありがたさに涙がこぼれると歌ったと伝えられる。『異本山家集』

西行(さいぎょう)
 元永元年(一一一八)〜建久元年(一一九〇)平安後期の歌人。左衛門尉佐藤康清の子、母は監物源清経の娘。俗名は義清。晩年に円位と号し、大宝房とも称す。保延六年(一一四一)にわかに出家し、西行と名のる。出家後数年間は嵯峨東山鞍馬などの草庵や寺を転々として修行。生活体験のにじみ出た述懐歌にすぐれ、新古今和歌集では九四首が入集。
                   東京都神社庁「生命の言葉」より

二月の生命の言葉

「なるようになる、心配するな」一休和尚
いたずらに悩んでもしょうがない。という教え(死を求めるよりも)今を生きろ。死後、難題が持ち上がったら読めと残した遺言と伝えられる。

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
応永元年(一三九四)〜文明十三年(一四八一)室町時代の臨済宗の僧で京都生まれ。幼くして山城安国寺の象外集鑑の門に入る。文明六年(一四七四)大徳寺住職の懇願を受け大徳寺の復興に尽力。著に『狂雲集』『骸骨』など。その豊かな人間味から一休にかこつけ頓智咄が作られた。
                   東京都神社庁「生命の言葉」より

一月の生命の言葉

「みな人の祈る心もことわりに背かぬ道を神や受くらむ」藤原為守
どんなことでも道理に背いた祈りを神はお受けにならない。願い事をする心にやましいところがないか、冷静に考えてみるべきである。『玉葉集』より

藤原為守(ふじわらのためもり)
文永二年(一二六五)〜嘉暦三年(一三二八)鎌倉後期の歌人。権大納言藤原為家の子、母は阿仏尼。冷泉為相の弟。俗名は冷泉為守。暁月は法名。歌道の名門に生れ、作歌は『玉葉集』『風雅集』などに収められるが、酒を好み狂歌を詠み、『狂歌酒百首』の作者と伝えられる。
                      東京都神社庁「生命の言葉」より

十二月の生命の言葉

「交際の奥の手は至誠である」渋澤栄一
人とのつき合いで最も大切であり最後に物を言うのは、相手に誠実を尽くすことにある。相手に信頼されるためには真心と誠実が第一である。

渋澤栄一(しぶさわえいいち)
天保十一年〜昭和六年(一八四〇〜一九三一)。実業家。埼玉県の人。号は青淵。一橋家に仕えた後、幕臣となる。慶応三年(一八六七)徳川昭武に随行して渡欧。西欧の近代的産業設備や経済制度を学ぶ。維新後、大蔵省に出仕。のちに第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京ガスなど多数の会社を設立。教育・社会事業にも尽力。
                         東京都神社庁「生命の言葉」より

十一月の生命の言葉

「親を思う心にまさる親心今日の音ずれなんと聞くらむ」吉田松陰
親はどのような気持ちで子どものことを思っているのか。親というものは子どもが親を思う以上に、子どものことが気にかかるものである。

吉田松陰(よしだしょういん)
天保元年〜安政六年(一八三〇〜一八五九)。江戸時代末期の勤王の志士、思想家、教育家。長門国(山口県)萩で長州藩下士の杉田百合之助の次男として生まれた。天保五年(一八三四)、五歳のときに山鹿流兵学師範で叔父の吉田大助の養子となる。安政四年(一八五七)松下村塾を開塾し久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文などを教育した。安政の大獄により江戸の伝馬町牢屋敷に送られ安政六年(一八五九)、刑死。明治十五年(一八八二)東京都世田谷区に松陰神社が創建された。
                        東京都神社庁「生命の言葉」より

十月の生命の言葉

「一日延ばしは時の盗人」上田敏
この語は唯一の創作小説『うずまき』の中の会話の一説。「時は金なり」「一寸の光陰軽んずべからず」などというべきところを「時の盗人」であると強く言ったところが名言としての価値がある。我も人も、時の盗人にならないよう注意しなければならない。

上田敏(うえだびん)明治七年〜大正五年(一八七四〜一九一六)。明治時代の詩人、文学者、評論家、翻訳家。幕臣上田絅二の長男として東京築地に生まれた。東京帝国大学英文科卒業。青年期より西欧文学の翻訳紹介に務め、明治二十八年『帝国文学』の創刊を参画する。「山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う」カール・ブッセなどの名訳詞は、今なお広く知られている。                 東京都神社庁「生命の言葉」より

八月の生命の言葉

「寝ていて人を起こすことなかれ」石川理紀之助
自分は懐手でぬくぬくとしながら、他の者を追い立てて働け働けとこき使う者がいるが、それでは人は動かない。自分は仕事はしないで、人にだけそれを求めてはいけない。

石川理紀之助(いしかわりきのすけ)
弘化二年〜大正四年(一八四五〜一九一五)明治期の農業指導者。出羽秋田郡小泉村に生まれた。明治五年(一八七ニ)秋田県勧業課に任用され県庁に出仕。明治十五年(一八八ニ)県庁を辞し、秋田県農会を設立し会長となる。東北各地での農村復興、鹿児島・宮崎両県での開墾などを指導する。著に『稲種得失弁』(明治四年)など。
                       東京都神社庁「生命の言葉」より

七月の生命の言葉

「朝のこない夜はない」吉川英治
どんないやなことが続いても、やがては良い方に変化する。闇夜は永遠なものではなく、明るい朝が必ず来るものだ。だから諦めずに努力を続けようという教え。

吉川英治(よしかわえいじ)
明治二十五年〜昭和三十七年(一八九二〜一九六二)小説家、横浜生まれ。本名は英次。『鳴門秘帖』『宮本武蔵』により大衆文学の第一人者となり、以後、国民作家と呼ぶにふさわしい作品を数多く生んだ。代表作『新書太閤記』『新平家物語』『私本太平記』など。
                           東京都神社庁「生命の言葉」より

六月の生命の言葉

「大事をなさんと欲せば小事をおこたらず勤むべし」二宮尊徳
大事をなそうとする者は、目前の小さなことをおろそかにせずに、処理して行かねばならないということ。十九世紀前半の農政家二宮尊徳の言葉。手堅い生き方の勧め。

二宮尊徳(にのみやそんとく)
天明七〜安政三(一七八七〜一八五六)。江戸時代後期の農政家。相模国足柄上郡柏山村の農民利右衛門の長男。小田原藩家老服部家に請われて家政の建て直しに従事し成功した。この間、五常講を考案。この成功により、藩主大久保忠真から分家宇津家の下野桜町領の荒村復興を依頼され、「分度」と「推穣」を根本とする仕法を開始。この成功で世に知られ、老中水野忠邦に抜擢されて士分となった。
                          東京都神社庁「生命の言葉」より